Masumi Dialogue
vol.07
日本食とは「一飯一汁を箸で食べること」
シンプルな作法を軸に豊かな文化を耕す
これからの時代に求められる「豊かさ」とは何なのでしょうか。さまざまな分野の方々との対話を通じて、その答えを探っていきます。
今回は、日本にとどまらず「日本食」の文化や魅力を伝えるために奔走する、カリナリーディレクターの中東篤志さんへのインタビュー。中東さんは、田畑や醸造所など、各地の食べものが生まれる場所にフットワーク軽く出向いていて、ちょうど真澄の富士見蔵を見学に訪れたタイミングで、お話を聞くことができました。日本酒を含め、「日本食のまわりにあるすべて」が、中東さんの守備範囲。日本食が体現する文化を軸に活動する想いの源泉はどんなところにあるのでしょうか。
中東篤志(なかひがし・あつし)
京都市出身。ニューヨークの精進料理店『嘉日』を経て、2015年にOne Rice One Soupを設立し、ニューヨークと京都を拠点に、和食文化の発信のため、食まわりのさまざまなプロデュースを行う。2019年には京都に飲食店「そ/ s / KAWAHIGASHI」を、2021年には福井県小浜市道の駅にて「和久里のごはんや おくどさん」を開店。一般社団法人3000の代表理事としても「1000年後の食卓のために」活動中。
https://www.onericeonesoupproject.com/
食に関わるのが必然
料理一家の三男坊に生まれて
じつは、中東さん以外で、同年代でつながりのある日本食の料理人ってあまりいないんです。僕にとって貴重な存在だし、アメリカに渡ったいきさつや、その後料理に目覚めてニューヨークで食まわりの仕事に取り組んできた一連の経緯に共感しています。あらためて聞きたいのは、「食」は中東さんのなかでどんな存在なのかということ。きっと、生い立ちの中でずっと身近にあったものですよね。
中東篤志さん(以下、中東):料理人の家系になって僕が4代目にあたり、父親も、叔父や兄弟も料理人をしています。母も味噌の卸問屋の娘で、昔も今も家族が集まったら、食の話にしかなりません。
子どもに対しても、例えば「2歳までに卵を割る」って決めごとがあり、僕もそうやって育ちました。幼稚園のときに先生に「フライパンに卵割って炒めて、のり入れてご飯にかけて食べてんねん」って言ったら、信じてもらえなくて、すごく悔しかったのを鮮明に覚えています。
小学生になったらイカを捌く、小3で鯵の3枚下ろし、そこからだんだん魚が大きくなっていくんです。料理だけに限らず、小学4年生の夏になったら美山荘まで自転車で行く、なんていうのもありました。美山荘は、父の実家の料理旅館です。父は叔父と一緒に料理人をしていましたが、次男だったので45歳で独立しました。
僕が小6で兄2人は受験生だったので、僕が親父の店へ皿洗いの手伝いに行くことがありました。それまでは料理人の厳しい面しか知らなかったんです。初めてお客さんが楽しんで食べて「おいしかったわ、ごちそうさん」って言って帰っていくのを間近で見て、これが毎日続いたら、料理人って楽しいだろうなと感じました。
小学校の卒業文集の将来の夢には、「オーストラリアでチーズを作る」って書いていました。それだけ、働くといえばすべて食に通じていたんです。
バス釣りのプロを目指して渡米
田舎町の転戦で日本食が恋しく
高校を卒業してアメリカに渡った理由は、食に関わるためじゃなかったんですよね
中東:釣りを覚えて、バスプロになる夢ができたんです。バイト代を貯めて18歳でアメリカへ。とりあえず4、5年、みんなが大学に行ってる間に芽が出なかったら辞めるつもりで、3年目でプロの試合に出られるようになりました。でも、それだけで食べていくのは無理。オフシーズンには、日本に帰って親父の店やホテルで働いていました。
バスプロの生活って、田舎町を転戦していくんです。日本食が食べたくても店がない、それなら自分で作ろうと現地にあるもので作り始めました。やってみて気づいたのは、食材の種類は関係なくて、「どういうマインドで作って食べるかが大事」ということです。それに、アメリカ人は薄味は好まないと偏見があったけれど、外国人に迎合しない日本食でも「おいしい」って言ってもらえた。
あるとき、鶏を飼っているおばさんに頼まれて、鶏を絞めてすき焼きにしたんです。すると、昔、お客さんをもてなしてローストチキンを振る舞った記憶が蘇ったと、ぽろぽろ泣いていた。自分が日本食の精神性だと感じるものが、ここにもある。アメリカで料理したらおもしろいかもしれないな、と。
ちょうどその頃が、僕がアメリカに渡って5年目のタイミングでした。その後2009年にニューヨークで精進料理屋の立ち上げに関わりました。他のスタッフは料理人の経験豊富な人たち。僕は料理修行の経験はありませんでしたが、英語が喋れたので、お客さんやスタッフに「伝える仕事」があったことが転機になりました。自分の家族はみんな志を持っている料理人やし、職人はたくさんいるから、自分がやる必要はない。それなら日本食を伝えていく会社をやろうと決意。2015年に「One Rice One Soup」をニューヨークで立ち上げました。思い先行で、仕事はなかったので、大変でしたけど(笑)。
緻密な日本料理から簡素な日本食へ
〝削ぎ落とす〟から見えること
社名にはどんな思いが込められているんですか。
中東:「一飯一汁」って意味で、親父が名付け親です。文法的には正しくないですが、語呂がいいしそのままつけました。日本食は海外で人気ですが、家庭で作る人はあまりいない。よく考えてみたら、今って外国人の日本料理人のみならず、日本人の若手の日本料理人も少ないんです。理由を考えたら、難しすぎるのではないか、と。
日本のものづくりって何でも緻密。たとえば、自然の産物である鰹や昆布の状態はいつも違うけれど、それを鰹節や乾燥昆布にして、料理人が均一なだしの味にする緻密さが求められます。そんな料理をマスターするには、修行が10年20年必要だとしたら、そりゃあ広まらないよなぁと。バスや電車が10分20分遅れるアメリカで、緻密さありきの料理を伝えようだなんて無理。可能な限りシンプルにすると決めました。
とはいえ、日本食の普遍的な精神性は絶対なくしてはいけない。それは、左にご飯、右に汁があり、お箸で食べること。お茶碗を持って箸で食べることをベースにしたら、中身は問わなくていいのだと考えました。ご飯と具沢山の汁があったら十分ですしね。
箸を使うから、食材を1個ずつ食べる動作があるのが日本食の魅力。フォークやスプーンだと、いろんな食材が一緒くたに口に運ばれる動作になってしまうけれど、箸なら素材そのものの味を感じられる。「日本食って何ですか」と聞かれたら、「箸で食べることです」と答えています。
名付けて育てる
カリナリーディレクターという仕事
中東さんとは、何回か一緒にイベントをしていますが、作る料理が気取っていないのが魅力です。生活のなかにある料理と、プロの料理のちょうど中間のものを作れるのがすごい。日本食の姿を料理人としてではなく、いろんな形で体現して未来を作ろうとしている。そんな人って今までいなかったんじゃないかな。
中東:会社を立ち上げるときに、先人がいないからこそ、目指す仕事のあり方を明確にしようと思いました。アメリカ人の知人にも相談して、食に関わる全てのことをカリナリーというから、それをディレクションする人で「カリナリーディレクター」だと自分の仕事を定義しました。海外のレストランだと、サービスチームとキッチンチームが切磋琢磨して盛り上げていくのが当たり前。でも、古い体質の日本料理屋では、未だに料理人が上に立つ、みたいなところもある。料理は、料理人、サービス、しつらえ、すべてが集約してできるので、いろんなものの仲立ちをしていきたいです。
名乗り始めた頃は、取材されても「カリナリーディレクターじゃ伝わらないので、料理家でいいですか」と聞かれて、若かったし了承してたんです。でも、1〜2年して、これではあかんと思って、「カリナリーディレクターって書いてください」と言って、だんだん認知してもらえるようになった。最近は、20代の「カリナリープロデューサー」と名乗る人を見かけたりもして、少し広がってきた感じがあって、嬉しいですね。
僕たちが会社で掲げているのは「日本食業界の関係人口を増やす」こと。減少している日本食業界の人たちをつなぎ止めることでもあるし、業界外の思いも寄らない人たちにも関わってほしい。ちゃんと食べていたら人は良くなるし、争いごとも起こらなくなっていく。「人を良くする」と書いて「食」ですから、健康的に実践を積むのが目標です。
京都にある店「そ/S/KAWAHIGASHI」は、自分達の想いを体現する場所。最低限運営していけるプラスが出ていればよくて、その代わり面白い人と関わっていろんなことをしていきたい。福井県小浜市の道の駅にある「おくどさん」は、畑と田んぼに囲まれた84席のレストランで、海にも近い。道の駅なので食に対してアンテナを張っていない、このお店を目当てにしていない人もたくさん来る場所で、どれだけ生産者の想いを発信できて、どれだけの人たちをハッとさせられるか。生産者にとっては、育てたものがどうやって食べられるのかを間近で見られる場所でもあります。
京都は日本食の中心地?
生まれ育った場所から見える位置付け
中東さんが代表を務める一般社団法人3000の活動はどんなものですか。
中東:千年以上の歴史がある若狭と京都を結ぶ鯖街道が今後千年続くように活動しています。若狭にある小浜の店で、生産地からの発信をして、京都において食を見直す足がかりにしていきたい。鯖街道が忘れ去られたら、食も分断される。鯖街道をちゃんと使い続けられるように地域の人たちと一緒になっていこうとしています。
「千年後の食卓のために」をミッションとしていますが、千年前の人たちは千年後に残そうと意気込んで文化を作ってきたわけではないはず。ただただ自分たちの生活があり、必要に迫られてやったこと。鯖でいえば、腐らないように鯖に塩をして運んでいて、それがおいしかったから、文化になった。
現代に置き換えたら、自分たちが面白いと思えることを本気で取り組める人たちと一緒にやっていったら、自然とこの場所が盛り上がって何か残っていくのではないでしょうか。だから、鯖街道上でしっかり連携できる生産者をあと10年、2029年までに百人にする目標を掲げています。若狭の生産者の声を収集して、京都の料理人に紹介したり、一般消費者の人たちに知ってもらったり。僕らがハブになれればと考えています。
日本食の文化ど真ん中のイメージのある京都で、異色の動きをしているのが中東さんのおもしろいところです。
中東:京都で生まれ育ちましたが、昔から見てきた若狭の食材をあまり見かけなくなった。交通の便がよくなって北海道や九州からきたきらびやかな食材が並ぶのが当たり前になっていると感じます。
京都には移住者がどんどん増えていて、もちろんいい部分もありますが、かつての京都を知ってもらいたい気持ちもあります。京料理=きらびやかになっているけれど、元々は魚がない街で鯉が正式なお祝いの魚とされてきたし、若狭の鯖やグジがなんで京都で食べられているかといえば、塩をして運ぶとちょうどいい塩梅になって食べられるから。そもそも京都って食材が乏しいから工夫した料理ができた土台がある。僕がそういう文脈で「京都においしいものはない」って言ったら、「お前刺されるんちゃう」って言われましたけど(笑)。京都はずっと都だったから、周囲の生産地からおいしいものが集まってきて生かされてる街。まずは生産地に目を向けて感謝していかないとだめです。
こういう視座を持って日本食を捉えている人がいるのが心強いです。
中東:めちゃくちゃ苦労してますけどね。日本の人口は減っていくし、このままだと日本食は廃れていく。世界を舞台にして日本食を存続させていくために、今は、説得力を持つ具体的な目標値を示したいと考えて模索中です。何をどうやったら上手くいくかはわからないけれど、まずは、同じ想いを持っている仲間を増やしていきたいですね。
One Rice One Soup株式会社
「そ /s/ kawahigashi 」京都府京都市左京区東丸太町18−5
「和久里のごはんや おくどさん」福井県小浜市和久里24-25-1
聞き手:宮坂勝彦(宮坂醸造)
写真:土屋誠
構成:小野民