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宮坂勝と窪田千里の思い出

宮坂勝と窪田千里が掲げた夢は、なんと「日本で一番美味い酒を造ること」。
大胆な夢の実現のため二人は「東に銘酒ありと聞けば取寄せてきき酒し、西に美酒ありと聞けば夜汽車で見学に行き」という日々を送りました。

広島県西条(現東広島市)の酒屋さん、中でも「賀茂鶴」さんには親身のご指導をいただきました。祖父は酒が入ると孫たちに「賀茂鶴さんの陰口を言ったら家から追い出すよ」と繰り返したものです。

私が駆け出しの頃、各地の酒蔵へ見学に行くと、しばしば先方の社長さんから「お宅のじい様と我家の先代は良きライバルだった」「これからも切磋琢磨していい酒を造ろう」と声を掛けられ、未だに残る祖父の足跡を感じたものです。


(後列左から4人目が窪田千里、右から3人目が宮坂勝)

永年の苦心の末、真澄が全国品評会で金賞を重ねるようになると、窪田杜氏は諏訪杜氏のリーダーとなりました。真澄の宿舎には夜な夜な他社の杜氏や蔵人が押しかけ、まるで学校のようだったとか。

醸造試験場の先生が酒蔵へ指導にやって来ようものなら「下っ端の蔵人までソロゾロ出てきては質問攻めにされて眠れなかった」のだそうで、真澄へ指導に行くのを嫌がる先生も多かったようです。

一冬の酒造りが終わると窪田杜氏は祖父や父の処にやって来て、「身を粉にして造った酒だから大切に売ってください」と深々と頭を下げるのが常でした。当社が販売を専門酒販店に絞って来たのはこのためです。

小学生の頃、祖父・窪田杜氏・壜詰責任者がきき酒しながら激論を戦わせている場面にでくわしました。日頃温厚な祖父や杜氏の鬼の様な形相は大変なショックで、今でも私はこの場面をまぶたにありありと浮かべることができます。

宮坂勝は朝9時には会社できき酒を開始。泥酔して自宅へもどり、5時から再びきき酒、泥酔して就寝という日々を95歳まで続けました。酒器は試験管と白磁の盃。酒好きではなく酒に弱い祖父に酒を飲ませたのは、明治人の責任感だったと思います。

味や香りが個性的で、一口含んだお客さんに「これは面白いね〜」と言わせるような酒を造るのは簡単。お客さんの意識から酒が消え、ふと気づくと徳利がごろごろ倒れている。「そんな真澄を造れ」というのが祖父の口癖でした。

1950年代には小さな酒蔵であった真澄も、お客様方の厚いご愛顧に支えられ、中堅蔵へと成長しました。しかし、今の真澄の一滴一滴にも宮坂勝と窪田杜氏が確立した酒造りの精神が染み込んでいると私は自負しています。

(文 宮坂直孝)