真澄はおかげさまで350年

真澄蔵元・宮坂家が酒造りを始めたのは西暦1662年、寛文二年・江戸初期・四代将軍家綱の時代でした。

以来、大布屋を屋号として営々と酒造りを続け、本年350年目の節目を迎えることができました。
これだけの歳月を重ねられたのは、それぞれの時代、それぞれのご縁で、真澄という酒蔵に関わって下さった幾多の人々のご厚情、そして代々の当主、多くの従業員や蔵人の奮闘、ご家族のご支援があってこそでした。

遠くは足利尊氏に仕え、その後諏訪氏の家臣となった宮坂家の先祖は、戦国時代に諏訪氏、武田氏、織田氏の戦乱に翻弄された末、刀を捨てて高島藩御用酒屋に転じました。

創業の頃のエピソードとしては、諏訪で半生を過ごした徳川家康の六男・松平忠輝公が座右に置いて愛飲した、赤穂浪士の一人・大高源吾が東下りの途中蔵へ立ち寄り味わいを絶賛したといった逸話が伝えられ、拝領の盃や印籠が遺されています。

酒名「真澄」は、江戸時代後期から使い始めたブランドで、諏訪大社・上社の宝物殿に納められている「真澄の鏡」から戴いています。

真澄の歴史は、決して平坦なものではありません。

特に江戸末期から明治時代までの間、大変苦しい時代が続き、一時は酒蔵を手放す悲哀も味わっています。

この窮状を建て直したのが十九代伊兵衛・南翁居士でした。

家族ぐるみ寝る間も惜しんで商売に身を捧げて徐々に家運を盛り返し、さらには才覚を生かして事業を拡大。醤油や味噌の醸造、茶葉.石炭の販売、高島銀行という銀行の経営をも手がけました。
高島銀行は幾つかの変遷を経て六十三銀行と合併、やがて八十二銀行へと繋がって行きました。真澄のいしずえを築いた南翁居士は宮坂家・中興の祖として今も一族や従業員から「南翁様」と慕われる存在です。

「美酒造りに徹する」

十九代伊兵衛が大正十年惜しまれながら59歳で没した後、酒造業再開を期に、学業半ばで酒造りを担当することになった次男・宮坂勝は、小さな酒屋の生き残りは「美酒造りに徹する」とこしか無いと決断し、若干20余歳だった青年、窪田千里を杜氏に抜擢。この時から宮坂勝と後に名杜氏の名を欲しいままにする窪田千里との二人三脚が始まります。

二人は「東に銘酒ありと聞けば取り寄せてきき酒し、西に美酒ありと聞けば蔵を見に行き」という日々を延々と続けます。
そんな努力がようやく実って真澄が全国品評会で金賞受賞を重ねるようになると、窪田杜氏は諏訪杜氏のリーダー的な存在となりました。真澄の蔵には毎晩のように他社の杜氏や蔵人たちが押しかけ、あたかも酒造り学校のようだったとか。

一冬の酒造りが終ると、窪田杜氏は宮坂勝や現在顧問を務める宮坂和宏の許へやって来て、「蔵人全員が身を粉にして醸した酒だから、どうか丁寧に商って下さい。」と深々と頭を垂れるのが常でした。
一方宮坂勝は、齢80を過ぎてからも朝9時にはきき酒を始め、昼の一休みを挟んで夕方から再びきき酒という日々を晩年まで送りました。

明治人ならではの強い責任感から、酒に弱い体質だったにも関わらず、飾り気の無い白磁の盃に試験管から酒を注ぎ、冷で燗で風味のチェックを怠りませんでした。

窪田杜氏、ブレンドの責任者の三人で、お客様にご満足頂けない様なお酒をお届けする訳にはいかない、納得するまで徹底的に極めなければという議論を、普段は温厚な三人が口角泡を飛ばして行う光景はまさに圧巻でした。

真澄の歴史を「七号酵母」抜きに語ることはできません。

宮坂勝、窪田千里の長年の奮闘努力により、昭和十年代の真澄は様々な品評会で上位入賞の常連となっていましたが、昭和21年には春.秋の全国清酒品評会で上位三位を独占という快挙を成し遂げます。
当時、国税庁醸造試験所は優良酵母の発見に力を注いでおり、時の醸造試験所長・山田正一博士によって真澄のモロミから採取された酵母が、他の何れの酵母より優秀であることが認められ「七号酵母」と命名されました。

七号真澄酵母はたちまち多くの酒造メーカーで使用されることとなり、発見から65年を経た現在でも全国のおよそ60%の酒蔵で品質向上に貢献しています。

諏訪蔵の奥まった一角には山田正一博士の揮毫による「七号酵母誕生の地」のプレートが埋め込まれています。

多くを造るより美味きを造れ

さて、真澄の品質の基礎を造った窪田千里杜氏は後継者の育成にも異彩を発揮。「多くを造るより美味きを造れ」をモットーに、次々と名杜氏を育て上げました。久保田良治、雨宮正徳、森山哲夫。歴代の杜氏たちは彼の酒造りに対する情熱と技術を確実に継承し、真澄の味わいに輝きを与えて来ました。現在、真澄の酒造りは、科学的な専門知識を身につけた那須賢二が率いる技術者たちに受け継がれ、さらなる技の高みに向って進化を続けています。

現顧問・宮坂和宏は昭和26年に真澄へ入社すると共に様々な革新に着手します。

他社に先駆けた自家用トラックによる迅速な配送、新聞やテレビでの積極的な広告展開、東京市場の開拓、熱心な酒販店との直接取引きの拡大、1970年の大阪万博への出展など、ことごとく当時の業界常識を覆す斬新な政策でした。

また宮坂和宏は、更なる品質向上を図りつつ製造量の増加に対応するため、昭和57年、諏訪杜氏の生まれ故郷であり酒造りにとって理想的な自然環境を具えた入笠山山麓に真澄富士見蔵を建設しました。
こうした販売上の工夫や製造設備の増強により、やがて真澄は急成長の軌道へ入り、全国の日本酒ファンから「信州が生んだ天下の銘酒」と親しまれるブランドへと育って行ったのです。

現社長・宮坂直孝は、都心の百貨店での修行経験から、清酒業界に季節性を復活させようと考え、夏の生酒や冬の人気商品「あらばしり」などの季節商品の開発と宅急便による配送システムをスタートさせました。

「真澄のある和やかな食卓」

また、家族の絆の根本である食卓を和やかにする美酒を提供して行きたいという、祖父・宮坂勝以来の志を引き継ぎ、「真澄のある和やかな食卓」を合言葉に、原料米を吟味し、製造方法にこだわった酒造りを目指しています。

「日本酒を世界酒に進化させる」

さらに、先代・宮坂和宏が他社に先駆けて東京市場の開拓に力を注いだ姿勢にならって、「日本酒を世界酒に進化させる」という夢を掲げ、世界市場の開拓に努めています。

ちっぽけな酒蔵だった真澄も、多くの方々のご愛顧に支えられ何とか人並みの酒蔵へと成長することが出来ました。
これからも、一滴一滴に宮坂勝や窪田千里杜氏が確立した酒造り哲学がはっきりと感じられる様な酒を造り続けたいと思っています。

今までの350年に賜ったご支援に改めて感謝申し上げると共に、次の350年に向け新たな一歩を踏み出した真澄に、一層のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。